Artが生まれる瞬間/小山利枝子・町田哲也・ナカムラジン



2021年 10月1日(金)〜11月3日(水) 11:00〜17:00(火・水定休日)

アーティストごとにその作風・技法等が様々であるように、完成作品にたどり着くまでのアプローチも多種・多様。モチーフへ向けた日々のたゆまぬ観察から始まることもあれば、ふとした何気ない思いつきを啓示とする成り行きもある。哲学的な言葉が静かに寄り添うこともあれば、生れ持ったセンスと感性がいっきに後押しする場面もあるかもしれない。一見して隙の無いようにみえる完成作品も時をさかのぼれば、その着想の瞬間は混沌の海の中にあるとも言える。
今回はキャリアも取り組むテーマもそれぞれに異なる3人の作家に、完成作品に至る発想の時間的経緯の一端を添えてもらいながら展示空間を構成してみたいと思います。

〈各作家ステイトメント〉

小山利枝子
「手渡される答えと投げかけられる問い」 

ありがたいことに画家が職業になって30年余りが過ぎつつあり、すでに過去の作品で記憶から消えているものも多い、それほど多数の絵画を制作して発表してきた。しかし表現の世界において作品の優劣とキャリアは比例することはなく、表現する者はむしろ長く続けてきた弊害を自覚するようになる。過剰なプライド、自己防衛本能 自己模倣 惰性。どれも自分の感性や表現技量の枠組みを突破することができなければ落っこちてしまう暗い穴だ。私はその穴に落ちないためにデッサンをする。

眼前にある花をデッサンすると痺れるぐらいの美しさを発見することができる。そこには壮大な自然界のパノラマが広がっている。その感動はいつまでも変わることがない。ただ眺めているだけでは見えて来ない答えが描くという行為をとおして花から私に手渡される。しかし出来上がったデッサンは私の技量を超えることはない平凡なものである、花から手渡された答えはデッサンをしている時の感覚の記憶として私の中に残されるのみだ。記憶のかけらとして手元に残っている平凡なデッサンを道標にしてカンバスに向かい、手渡された答えをどうにか定着しようとする。一方真っ白なカンバスに何らかの働きかけをした途端にそこには予測していなかったさまざまな絵の具による現象が現れる。それは絵の具と水とカンバスが時間を媒介して私に投げかけてくる大きな問いであり、無視することは到底できない。カンバス上に現れた問いにその都度応えながら花に手渡された答えに向かって制作は進んでいく。すると制作を開始した時には思いもしなかった画面が出来上がってくる。私の絵画制作は以上のようなプロセスでなされている。

そして少しでも答えを定着する技量をあげたいという願いから、日々スケッチをする。たとえば刻々と姿を変える雲の形をデッサンしてみる。無数の木の葉で覆われた山をデッサンをしてみる、。描くたびに対象に追いつけないという焦燥感にかられつつも無謀な行為を続けているのは、描くという行為をとおして自然の神秘的な姿と出会う事の喜びを知ってしまったからだろう。近年では純粋に画面上で描くという行為を楽しむ事も自分に許可し始めている。答えを手渡された以上それに向かっていく事に迷いはない。

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町田哲也
「観客のいない制作」

 事を露呈させる、顕すことは悲劇であるという、青年の頃の稚拙な達観が拭えない時空を過ごしてきた者としては、年齢と共に意思決定の遅延する制作という世界への介入(放下ーgelassenheit / Martin Heidegger)自体、贖罪のニュアンスが含まれる。責任の所在を巡って長々と追求される(視覚認知)と同時に、探索捜査せざるを得ない「一筆(ひとふで)」「みつめ」があり、この贖いそのものには終わりがない性質があって、私にとっては、そこには「終了」あるいは「完成」というものがない。倹しい些末な決定あるいは未決定の数々が都度目の前に広がるばかりで、責任は負えそうにないと溜息を吐きつつ、その始末を遍く考え続けているようなものだ。
 時々の時勢に打ち寄せられ、其々の岸にとりつく場合があり、その度その場に重ねられた痕跡をやがて束として眺めるようになる時、歪(いびつ)な「私」個体の骨だけになったかの死骸は複雑怪奇な塊と放られているので、その片付けをすることが、私にとっての現在の制作とも云える。
 「露呈する事・される事」が孤立無援で悲劇的に成立されながら、「恣意」と「恥」と「他者」と「私」は、この困り果てた状況を更に無責任に放り投げるように促すのはなぜか。こうした生存は幸せであるはずがないと呟きつつ。

 故に私の作品は、目的が達成される類いとは言えない。例えば平面における皮膜の様相の解釈と改変、あるいは削除と加算という振舞いによって、現在を顕すというより、いよいよ朧で未決定だった過去が明らかになればよい(贖罪)と考えるのであって、むしろ構築的なスケジュールの呪縛から逃走するバイアスがある。私は今回の展示総体を「秋の星座」とタイトルを与えるインスタレーションと捉えネスト構造(入れ子)を与えたのは、同時期別の場所(FFS倉庫ギャラリー/長野市)で、「夏の星座」と題した立体によるインスタレーションを開催しているからでもある。「星座」とは私にとっての時間と視覚認知の認識である。

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ナカムラジン
「花もよきもの…。」

 法輪というものがある。悟りを開いて仏陀となった釈迦の教えが、まるで車輪の転がるように流布していくことを願ってデザインされたアイコン。原始仏教において釈迦は自身のカタチが信仰の対象となることを望んでいなかったため、この輪の形をアイデンティティーとして後の人たちは結束していくことになるのだが、しかし人は人の面影を求めるもの。釈迦入滅から500年以上を経て教義が各地に伝わる頃には、その人のヒトガタが石に刻まれるようになる。偶像崇拝の始まりだ。
 神仏というスピリチュアルなテーマで絵を描いてみようと思うまでに、もちろんそんな気の遠くなるような歳月を要したわけではないが、それでもどこかに宗教的ハードルみたいなものがあって、さすがに好きだからハイ描きます…というわけにはならなかった。それなりの時間と何かしらの縁の積み重ねのようなものは必要だったのだと思う。
 それでもよくよく考えてもみれば美術界において「愛とエロス」「生と死」「宗教画」という三大テーマで太古より人々は作品を残してきたと言っても過言ではなかろうから、それを生業とするものにとって「仏像」を描いてみるという選択もあながち突拍子もないことでもないのだろう。テーマがテーマだけに自分にその資格があるのだろうか…などとあまり深刻に考えず、ためらいもなくどちらかというと喜々として描き始めて10年ほどが過ぎ、実は今では花も鳥も描いている…というより何でも描いている、節操もなく。
 この世の全てのものには仏性がある…「草木国土悉皆成仏」という仏語の導きか、禅寺に納める屏風絵を制作中にふと何気なく自ら描いた背景の植物をみて「花も良いものだな…」と素直に思った次第。描くことはなかったが知らぬ間に身の内に沈殿していた情感が揺れてざわついた瞬間。「秘すれば花なり」幾年も印象にとどめ続けたあれやこれやに豪奢な衣装を纏わせてひとつずつ表舞台に送り出してく作業がこれからもつづくのだろう。